History

デビュー以前


1970年のある日、当時12歳だった原田真二少年は、TVの衛星中継に釘付けになっていた。それは、エルビスプレスリーのコンサートの中継であった。そして、この7年後、ミュージシャン原田真二が誕生するのであった。

ギターを練習し始めたのは12歳、そして高校に入学したころからピアノを弾き始める。

勿論、始めから流暢に演奏できたわけではないが、約3年後にはヤマハのビッグバンドでギターを演奏し、しばらく後にプロデビューをはたしたときには、当時目新しかったピアノの弾き語りをTVで行なったことを考え合わせると、ただ才能というより、今回の人生だけでは推し測れないバックグランドが、彼には既に備わっていたようだ。

 

話は少し戻るが、彼が15歳のとき、生涯の師と仰ぐ恩師にめぐり合い、心の大切さ、その力の偉大さを学び、それによって、彼の音楽の方向性が決定づけられた。

事実、彼の音楽には、退廃的なもの、破壊的なものは一切見られず、常にプラスの波動で聴く者を勇気づけてくれる。これにはもう一つ、彼が広島で育ったということも大きく影響していると思われる。平和の大切さが、感受性の強い子供心にしっかりと刻み込まれていたようだ。

 

近年、ミュージックセラピー、環境音楽など、音楽が、人間も含めたすべての生き物に、いかに影響を及ぼすかが、解き明かされつつあるが、彼は、このとき既にその重要性を感じ取っていたのかもしれない。

デビュー後


1977年いよいよデビューの年をむかえる。

きっかけは、その前年にフォーライフレコードが募集したオーディションに自作の曲で応募したことから始まる。

応募作品約3千曲の中から1位で選ばれた彼は、大学入学で上京すると同時にデビューすることとなった。

そして、10月25日「てぃーんずぶるーす」11月25日「キャンディ」12月20日「シャドーボクサー」と、3ヶ月連続してシングルをリリースするといった前代未聞のデビューを飾ったのであった。これは、彼の多様な音楽センスを、一つの作品だけで表現することが難しく、このような異例のデビューとなったわけである。

 

異例と言えば、リリースした3曲ともベストテン入りするというそれまでの日本音楽史上例を見ない現象が起きたのもこのときである。また、1978年にリリースされたデビューアルバムは、初登場1位となり、そのまま数週間連続トップを独走した。

勿論、この時期の彼は、ミュージシャンであると同時に、ものすごいアイドルでもあった。これは、本人が好むと好まざるとにかかわらず、強力な力で彼をスターダムに押し上げていった。

3万人を越えるファンクラブの会員、当時の表紙を飾った雑誌の数といった、客観的な数字からみただけでも、そのアイドルぶりのものすごさは容易に想像がつく。

そのころ本人は、自分が目指していたものと現実のギャップに、心悩ませていたのであった。このまま時代の波にあらがうことなく、アイドルとして超過密スケジュールをこなし続けていくか、ミュージシャンとしての自らのリズムを取り戻すべきか……二者択一を迫られていた。勿論これは、外部からというわけではなかった。

歌手ということだけでなく、アーティストとして自らの作品を創造していた彼にとっては、それらのバランスをとることは、芸能界のリズムでそのまま進んでいったのでは、ほとんど不可能なことに思えた。今ほど多様性のなかった当時の芸能界を思いやると、致し方ないことであった。

かくして彼は、自らのリズムを取り戻す道を選んだわけである。

 

それは、デビュー3年目のことであった。それまで所属していたプロダクションより独立し、自らの会社、株式会社クライシスを設立。(1988年(株)エアーフィールドに社名変更)そして、その代表となった彼は、TV、マスコミからもある程度の距離を保ちつつ、アーティストとして本来の活動に専念することとなったわけである。

 

現在までにリリースされたアルバム、シングルは、70枚以上。他のアーティストに提供された楽曲は、200曲以上となり、メロディーメーカーとして揺るぎない地位を築き上げたのであった。

その他、多くのCMも手がけ、その卓越したセンスは、業界内で高く評価されている。

TV番組では、龍村仁監督の「命の響」のテーマ曲「生命交響楽」が放送されている。

 

1995年には、東京都八王子市立下柚木小学校の校歌を作詞・作曲し話題となった。この校歌「下柚木の丘はいつだって」は、CD化され一般発売された。教育委員会始まって以来のことであった。

 

1996年には、パシフィコ横浜にて行なわれた環境庁主催、入場料100%寄付のチャリティーライヴの制作にたずさわると同時に演奏も行なった。この収益金は、ボスニアヘルツェゴビナへ寄付された。その他、特殊法人、環境事業団協力の環境チャリティーコンサート「SEEDS IN THE FIELD」に数回出演。

 

その他1998年には、細川俊之、遠山景織子、坂本昌行出演のミュージカル「奇妙なゲーム」の全音楽を書き下ろしプロデュースした。これは、追加公演も行なわれるほどの大好評を博した。

 

1999年5月には国際環境会議に参加し2001年10月には、同会議のレセプションにて演奏した。

 

2000年12月30・31日、椿山荘のフォーシーズンズホテルにて、2日間のディナーショウ ミレニアムカウントライヴ」が行なわれた。

この年より松田聖子の音楽制作に関わるようになり、2001年から4年間シングル、アルバムとも楽曲を提供し、コンサート及びディナーショウのプロデュースを行なった。

 

2002年には、日韓合作映画「白神渡海」hakujin tokai の音楽(テーマ曲・挿入曲)を担当した。

2004年11月東京都八王子市立緑が丘小学校の校歌を作詞・作曲し校歌の制作は2つめとなった。

2006年8月6日にはニューヨークでUNIVERSAL PEACE DAYのイベントに参加。リバーサイド・チャーチ、リバーサイド・パークで演奏し高く評価された。

 

自然環境、心の環境問題をテーマにした環境チャリティー「鎮守の杜コンサート」を2000年よりスタート。2005年にこの活動は「NPO法人 ジェントル・アース」を設立。明治神宮、伊勢神宮など日本各地の神社で毎年開催し、2006年11月には、広島護国神社で行なった。

 

現在、原田真二は、他のアーティストのプロデュースにも力を入れる一方、永年の夢であった、地球規模での活動を展開するため、その第一歩として、英語圏での活動をスタートすべく準備を進めている。「いい音楽」の持つ力を信じ、生かし、育み、生かされていく暖かい波動を世に送るべく、ますますアクティブにポジティブに活動を続けている。

 

少年の頃灯った種火が、新世紀スタートと共に、大きな炎へと燃え盛り始めたようだ。